MIZ-C の「脳みそ揺さブログ」

「音楽を作る事ってどういうことなのか?」を個人的な解釈してみたり。音楽製作活動を通して感じた事、価値観や人生論、その軌跡を綴ります。

作詞・作曲のきっかけと始まり

耳コピの少年】

前回記述したように作詞・作曲のきっかけは「コピーバンドを始めたから」ということになるが、それ以前に作曲に関するような「遊び」を小さい頃からやっていたのだった。それは「耳コピ」である。

 

主にゲームのBGMを耳コピし、家にあったYAMAHAの電子ピアノにドラムマシンとちょっとした録音機能がついていたので「音を重ね原曲にいかに近づけられるか」という自己満プレイをしていた。その頃は恐らくまだ幼稚園児だったと思う。

 

小学生になれば「音楽遊び」の幅はかなり広がった。その理由の1つが誰だって演奏したことがあるだろう「リコーダー」と「鍵盤ハーモニカ」である。この頃は主にアニソンを耳コピしていた。(※音楽のリコーダー課題曲でアニソンをやろうとして怒られたこともある。

 

今になって気づいたことだが、小さい頃から「音楽」に関しては「こだわり」や「追求心」があり、熱心になる時がよくあった。母親とスーパーに行けば、店内でかかっているBGMのベースラインをよく口ずさんでいた。

 

そして、軽音サークルに入った時も、主に譜面のないバンドの耳コピ、譜面化(独特なやつだけど)出来る事がちょっとした自慢であり、よくサークルのメンバーに教えたりしていた。

小さい頃からの何気無い「気まぐれの積み重ね」

が、「耳コピ力」の向上と作詞・作曲においての力になってくれたのかもしれない。

 

【初めての作曲】

人生で初めて作詞・作曲をしたのが二十歳前だったのは覚えている。第1作目の内容は「ベタベタのラヴソング」だ。今じゃ恥ずかしくて聴かせられない。ただ「この曲から全ては始まったんだな」と思うと大切にしたいと思う。

 

その時は前項に記述したように「コピーバンド」を軽音サークルの中でやっていた。みんな大好き「ASIAN KUN-FU GENERATION(通称:アジカン)」のコピーバンドである。

 

何曲か合わせて、公の場で披露したり、いろいろ経験を重ねて約一年たった頃、ふと「アジカンがこんな曲演奏してくれたらいいな〜」というちょっと上から目線の図々しい発想と妄想により問題の「ベタベタのラヴソング」が誕生したのだった。若かりし頃の当時、片思いだった人に向けて書いた歌詞だ。すごく鮮明に覚えているのだが、見よう見まねで抑えたコードが、降りてきたメロディとすごくマッチしていて舞い上がっていた。

 

そんな中、バンドメンバーと次の発表会に向けたコピーバンドの練習があり、いつものスタジオでガチャガチャの「汚サウンドギター」をかき鳴らしていた。その休憩時、何を思ったのかメンバーにこう言った。

「ちょっと曲を作ってみたんだけど、聞いてくれないか?」と。

「何をくそ恥ずかしいことを言ってんだ馬鹿野郎!」と思いつつも、聞いてもらいたくて仕方なかったのでしょう。

「え?まじで?聞かせてよ」

という返答が返ってきたので、ちょっとホッとして。普段どーってことないのに、奴らの前で足ががくがくな状態になっていた。

 

とにかく弾いた、歌った。めちゃくちゃ音痴な声で。

そしてバンドメンバーからの第一声・・・

 

「お前すごいな」「普通にもう曲じゃん」

 

という言葉だった。嬉しくてたまらなかった。もうその場で全裸になってしまいたいほど、頭がぐっちゃんぐっちゃんだった(全裸にならなくてよかった。)そこからその曲を聞いたメンバーは、咄嗟に持ってきたコードに合わせて、みんな見よう見まねで演奏してくれた。あの時の空気といったらたまったもんじゃない。「楽しい」で溢れかえっていた。後にオリジナル曲をいくつか作り、ライブをしたり、CDを作っていくことになることも知らずに。ここから自分の「作詞・作曲」人生がスタートした。

 

【さいごに】

あの時、あのメンバーでよかった。そして、勇気を出して、彼らの前で演奏してよかった。だから今の自分がいる。と思うと本当に感謝でいっぱいだな〜。今そのバンドは「解散はしていない」が「活動休止」ということにしてある。多分どんな時代になろうともこのバンドは自分の心から消える事はないだろう。

という事で、最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました!こうやって「自分と音楽の歴史」をふりかえりながら、作曲のヒントを見つけ出してく姿をここに綴っていけたらな〜と思っています!今後もよろしくお願いいたします!